規律違反の警官に「キティちゃん」腕章で罰…バンコク
2007-08-07[2007年08月07日 10時24分 バンコク 6日 ロイター]
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081186449902.html
バンコクで、態度の悪い警察官への罰として、日本のキャラクター「ハローキティ」 がついたピンク色の腕章の着用が導入されることになった。
道路でのゴミの投げ捨て、違法駐車、遅刻などが発覚した警察官は、数日間にわたってハートマークに猫が配された可愛い図案がついた腕章を着用しなければならない。
ポンパット・チャヤパン警察大佐は6日、「規律を築きあげるためです。小さな違反も見逃してはなりません」と述べた。
「有罪と認められた警察官は、違反の内容について沈黙を命じられたうえで、職場で何日かにわたって腕章を着用します。人々に彼が何をしたか推測させるのです」
ポンパット・チャヤパン警察大佐は、このアイデアは1980年代から1990年代にかけてニューヨークで実施された「割れ窓理論」に基づいたものだと語った。軽犯罪も厳しく取り締まることが、より深刻な犯罪の減少につながるという考え方だ。
サンリオの見解が知りたい…w
著作権とかクリアしているんだろうか?
でもなぜにキティなのか?
どうせならバカボンの「ホンカン」さんあたりがいいんじゃないの?
規律違反の警官といえば両さんだけどなw
接戦!
2007-08-05やっぱキューバ強いな。
フルセットまで凄い緊張の連続だった。
結果的に負けたけど
いいゲームだった。
サオリンも肩の故障があって精彩を欠いていたけど
その分サーブで貢献してた。
来週は十分ケアして
チャイニーズタイペイ戦に臨んで欲しい。
頑張れ!
ただいま研修中
2007-08-05JAS法が改正になったので
それに伴っての講習に強制参加…
朝から夜までタップリあるからなぁ。
拷問です。
眠くて仕方ない。
それにしても
講師の板書、何書いているのか全然読めませんけど…
白星発進!
2007-08-04予選1日目。対カザフスタン戦は3-0で勝ちを収めることが出来た。
3年ぶりに全日本ユニフォームでコートに戻ってきた栗原が19得点をあげたことは
神が降りてきたんじゃないかと思う。
移籍問題や故障で一時はどうなるかと思ったが、
見事な復活。おめでとう。
開幕前、松田聖子と藤井隆(どちらも余り好きではない)がサポーターをやるとかで
選手以外の情報を見ないようにしていたのだが、
御大サブちゃんが国家斉唱とは(笑
メグの復帰もスゴイが
サブちゃんの方に食いついてしまった…
chronicle 1966-1978 2
2007-08-032
小学校に上がった頃、僕は眼鏡をかける様になった。強度の近視と内斜視だった。その事で同級生達にはよくからかわれた。父親はあの人の血筋の遺伝だと言っていた。僕にはその事の方が辛かった。どんなに離れていてもあの人と切れる事はない、あの人の血が僕の中を流れている事がたまらなく嫌だった。だからどんなに悪い事をしても、僕は悪くない、みんなあの人の血のせいだと思い込んだ。父親は日毎に増す疲れを露にしてきた。段々と生意気になっていく僕を持て余している様だった。家政婦は些細な事で父親と口論になり、とうの昔に辞めていた。僕はまた独りで過ごす事が多くなっていた。
この頃僕に友達と呼べる人はあまりいなかった。学校から帰ると殆ど外にも出ずに絵ばかり描いていた。父親の仕事が看板描きだった事もあり、その手の材料は幾らでもあった。次々とあふれ出る空想上のキャラクターは僕を飽きさせなかった。
年齢が上がるとともに自我が芽生えてくる。それは誰しも同じ事なのだが、僕の場合、かなり自己主張が激しかった様だ。一般的に何かにつけ自分自身をアピールすると誰もが疎ましがり、結果、孤立してしまう。その孤立を何よりも恐れていた僕にとって、それだけは絶対してはならない事だった。自分自身をコントロールする。この膨大なエネルギーを要する作業をするのには僕はあまりにも幼過ぎた。学校で良い子を演じていた僕が壊れるのは時間の問題だった。教師も父親もその事に全く気付かなかった。誰も何も言わなかった。僕は本を何度か万引きした。何の本だったかはもう覚えていない。ただ撲はスリルを求めていた訳でなく、生きている実感を求めていた訳でもなくて、バランスを失った心を平常にしたかっただけなのだ。それが出来るなら犯罪でなくても何でも良かったのだ。善悪の判断が付いていない子供が安易に走ってしまった方向がたまたま犯罪だったのだ。酸素ボンベもつけずに水の中に長時間いればどうなるだろう。そのまま溺れてしまうか、もがいてでも水面を目指そうとするだろう。それだけの事である。教師も父親もその事に全く気付かなかった。誰も何も言わなかった。
父親は毎日仕事に出たが、毎日浴びる程酒を飲んでいた。30代半ばと言う事もありその量は本当に半端ではなかった。外で飲む事も決して少なくはなく、その度に深夜になると店の女から迎えに来る様にと電話が掛かった。体は大きかった僕は泥酔した父親をおぶって帰った。父親は僕の背中の上で、おまえが赤ん坊の時は本当にかわいかったんだ、と何度も繰り返した。親にしてみれば子供は幾つになっても子供でしかないのだが、幾つになっても子供扱いしかしない事と、後ろばかりを向く様になった父親が嫌になっていた。しかし父親もまたバランスを失った心を平常にしたかっただけなのだ。あの人が出ていったのもそんな理由だったのかもしれない。誰のせいでもない。僕は街灯に照らされた家路を必死になって歩いた。背中の重さが自分達の不幸の重さなんだとは決して思いたくはなかった。
とうとう父親も壊れてしまった。飲み屋の客と喧嘩をして相手に怪我を負わせた。父親も無傷ではなかったのだが、相手の方がひどい有り様で、父親だけがその晩留置場泊まりとなった。明くる日になっても父親は帰ってこなかった。不安になって助けを求めた僕に親類の者は「心配するな。すぐに行く。」と言ったが、いつまで待っても彼等は来なかった。面倒な事は誰だってごめんだ。恨む気持ちはない。もう誰も信じられない。誰にも頼れない。僕は決して泣かなかった。
クラスメートにヒロコという女の子がいた。彼女とは1年生、2年生、5年生、そして6年生の4年間同じクラスだったが、喋った事は殆どなかった。ただそれは僕に限った事ではなく、彼女は誰からも相手にされず、毎日毎日些細な事で彼女に災難が降りかかった。彼女の学校生活は耐える事でその大半を費やしていた、と思う。僕は彼女がいじめられていた事に少し心を痛めていた。何故彼女は毎日あんなにいじめられなければならないのだろう。日々エスカレートする悪質な出来事に己を殺すことでしか自身を守れないなんてあまりに哀しすぎる。けれど同じ様な痛みを知る者だとしても、自分自身を守る事で精一杯だった僕はただ目を逸らす他無かった。君には授業やクラブ活動から解放されれば優しく包んでくれる両親がいるじゃないか。心の中でそう叫ぶ僕がとても汚く思えた。
父親の酒量は増える一方だったが、暴れる訳でもなく、呑んではため息をつくの繰り返しで、時折「勉強はしているのか」と言う程度で、まるで僕に関心がないかのように細かいことは言わなかった。澱んだ川の流れのような暮らしが続いていた。あの人がいない暮らしに慣れた、というか、最初からこういう暮らしだったんじゃないかとさえ思いだしていた。僕は父親の顔色を伺うことは充分判っていたし、このまま父親と二人きりでも生活していくものだと思っていた。