ふ と 思 い 出 し た 、 あ る 風 景

『僕の歌は、まだ、本当に伝えたい人に伝わっていないんじゃないかって思うんです』

彼がそんな話をしたのは、名古屋から東京に向かう新幹線の中だった。
あの時は確か彼は、東海ラジオの番組『誰かのクラクション』の録音で名古屋にいて、
私はやはり東海ラジオの『ロックンロール宣言』の録りで同じ場所にいた。

偶然、そこで会って、じゃ、いっしょに帰ろうということになって、
彼のマネージャーのSくんといっしょに名古屋駅の東京方面行きのホームまで来た。
ところが突然Sくんが、

『オザキ、明日、仕事ないよね。俺さ、このまま広島行っていいかな。ちょっと気になっ
てさ。今のうちに修復しておかないと』

Sくんは広島出身だった。1年前に上京して尾崎のマネージャーになった。
尾崎とは同い年の当時19歳。 遠距離恋愛中だった。東京と広島の間は遠い。
ましてマネージャー業に定休日や規定勤務時間はほとんどない。
年中24時間営業に近い。 会う時間はほとんどなく1年経っていた。修復とはその彼女のことだった。
そんな事情を知っている尾崎は、

『そうだよ。行ってこいよ。俺は東京へ帰るだけなんだから、もう仕事はここで終わり。
早く、行けよ』

『ホントにいい?』

『もち。 シャチョーには内緒だろ? 分かってる分かってる』

私たちは、隣のホームに駆けていくSくんをニコニコと見送り、
東京行きの新幹線に乗った。もちろん普通車両に。平日の夜の新幹線はけっこう空いていた。
ほとんどが大阪、名古屋の日帰り出張のサラリーマン。
10分もすると寝る体制に入り、車内はただただ列車の音だけが響いていた。
東京までの2時間、私たちはなぜかずっとしゃべりっ放しだった。

彼は、アルバム『回帰線』ができたばかりだったせいもあって、けっこうハイな状態だった。
どんな言葉を交わしたのか、今はほとんど思い出せないけれど、
車内販売の1杯のコーヒーとアイスクリームでずっと話していた。
今の音楽業界のこと。彼の立場のこと。ファンのこと。話に結論などなかった。
いきつくところは、音楽っていったい何なのだろう、という疑問だったような気がする。
何だか話しながらふたりとも、とても純粋な会話をしているような気になっていた。
その列車が新大阪を過ぎ、まもなく東京というときに、彼は冒頭のことばを口にしたのだった。

初めてニューヨークに行って、感じたこともあってか、
誰にどんな形で伝えたいのかしきりと考えていた。
そのとき、彼から『コヤニスカッティ』という一本の映画を紹介された。
ビデオやレーザーとしても発売されているこの映画を彼はニューヨークで買ってきた。
フランシス・フォード・コッポラ監督が作ったこの映像、はるかな年月が地上に刻んだ
荒野の地表の裂け目や赤茶けた岩、こまおとしで流れる雲などが冒頭に展開する。
そあいて唐突にパイプラインや電線、ガスタンク、ダムへと移り、
都会を行き交う人の流れがやはり駒尾崎豊として流れる。
古ビルの爆発の瞬間、何列にも並ぶ戦車、投下されるミサイルなど、
ただひたすら人類の作った非科学的な物質を、人や自然との往来のなかで延々と見せていた。

『この映像に新しいアルバムの曲を重ねて見ると、合うんです。前のアルバムだと合わないのに』

彼はそういっていた。

私はこの映像を彼が当時住んでいた下北沢の部屋で見せてもらった。 
あとにも先にも彼の部屋におじゃましたのはこのときだけだった。2LDKの広い部屋。
ひとつは仕事部屋になっていて、ギターやキーボード類が並んでいた。
生活の見える部屋で見た『コヤニスカッティ』の映像と『回帰線』が妙に合っていて、
何か駆られるものがあったのを覚えている。
私は、翌日、さっそく『コヤニスカッティ』を買った。
そして彼からダビングしてもらった『回帰線』のテープを流しながらひとりで見た。

彼女に会いに走っていったSくんのこと、
人が冒した過ちを人として歌を通して償っていけないものかと
思っているにちがいない尾崎くんのこと、
自分の仕事のあり方のこと
いろんなことが交錯していた。

『コヤニスカッティ』とは、インディアンの言葉で
"バランスを失った世界"という意味を持っているそうだ。

text by 藤沢映子 Birthday Special パンフレットより

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