アートディレクター、デザイナー、フォトグラファーとして、
いや、そればかりか映像作家、作家としても評価の高い田島照久氏。
彼が尾崎と出会わなかったら
ひょっとしたら俺は尾崎をどこまで好きになっただろう。
6pieces of storyのパッケージ
卒業、Driving all nightの12インチシングルのジャケット
そしてサードアルバムのジャケットや販促ツール…
デザインの専門学校に通っていた俺にとってそのどれもが刺激的だった。
表現者の尾崎とその姿を表現する田島さんの両方にのめり込んで行ったのは言うまでもない。
俺は尾崎になりたかったし、田島さんにもなりたかった。
尾崎のデビュー前、彼を担当する事になった当時ディレクターの須藤氏は
レコーディングミュージシャンを親交のあった佐野元春や浜田省吾のバンドメンバーを起用し
そしてデザイナーについても浜田省吾を手がけていた田島氏に白羽の矢を立てる。
ソニーのハウスデザイナーを突然辞め、フリーになって4年後の事だ。
田島さんと尾崎のエピソードは「COVER'S EDGE」「FREEZE MOON」「OZAKIのクラクション」などで読む事が出来る。
田島さんが表現したかった尾崎は、尾崎が表現したかった自分自身とそう遠くはなかったようで
他の人の意見はともかく、田島さんの手によって記号化されたOZAKIは格好良かった、と思う。
かくして尾崎は走り出した。
尾崎がNYへ行き活動を休止していた間、当時のファンはやきもきしていた(はずだ)。
ただでさえ媒体への露出がなく、今のようにインターネットがあった訳でもない。
尾崎に関する情報を入手するのは困難で、
「GB」「PATI-PATI」「シンプジャーナル」といった音楽誌に
ちょこっと載った僅かな記事を読むしか無かった。
そんな頃に、ようやくというかやっと掲載されたのが写真↑の告知だ。
「OZAKI MOVES AGAIN」
尾崎が再び動き出す。ファンを何よりも喜ばせるコピーだと思う。語呂もいい。
実はこのコピーは田島さんの作で、伝説のイベント「BEAT CHILD」もそうだ。
そしてその言葉通り尾崎は再び歌い始めた。
1988年、アップル社のパソコンMacintosh IIの発売を機に
田島さんはコンピュータ・システムを導入し、いち早くデジタルデザインに取り組む。
まだDTPという言葉も生まれていなかったと思う。
その後尾崎が自分の事務所を持った時に
田島さんと同じコンピュータ・システムを組んだというのはいかにも尾崎らしい(笑
さて、前フリが随分長くなってしまった。
1992.4.25、尾崎はこの世を去った。
以降、これまで様々なアイテムがリリースされてきた。
書籍、写真集、音源、映像…それはそれでいい。
だけど、年を追うごとに中身が陳腐化してきている事は否めない。
確かに未発表作品が多くある訳ではないし、故人に新作は作れない。
ただ売り手というか仕掛人のよこしまな魂胆が鼻についてきた。
「どれだけ言葉費やし君に話し」ても、だ。
この春にはまた?なベスト盤がリリースされる。
17回忌という冠をつけて。
違うんだよ。俺たちの求めているものはそんなもんじゃないんだ。
いつか、本当に話の分かるプロデューサーに
ちゃんとしたものをリリースして欲しい。
そしてその告知には「OZAKI MOVES AGAIN」と入れて欲しい。
以前みたいに再び尾崎が動き出すように。
それまでは…